残暑見舞いのはぶにっき "目的意識が無いから他人を貶す"( http://d.hatena.ne.jp/habuakihiro/20050817#1124241493 )より全文引用

やりたいことがあってそれに邁進していると、他人のことを気にかけているような暇はなかったりします。実際、ちょっと仕事がテンパるだけでブログを読むのも書くのも滞る方は多いことと思われますが、それがまぁ普通です。自分のことで手一杯なときは他人どころではありません。自分に一所懸命になれないから、他人のことが気になって仕方が無いのです。

また目的意識が不明瞭な人は、一見勉強熱心な人が多いように感じます。勉強してればいつかはいいことあると思ってるんでしょう。忙しぶって生きてりゃいつかいいことあると信じてる古式ゆかしいサラリーマンと似たようなものかも知れません。だけど、何を勉強しても自分が満たされるはずもないので、不満が高まる一方です。その不満が高じると、見た目だけは立派な評論家としてあれこれに対して鋭い指摘をしたりしますが、それは結局自分自身への苛立ちを撒き散らしているだけに過ぎません。

その証拠に具体的な対案が出てきません。いかにその対象(書籍なり誰かの意見なり)がいけてないかを一所懸命に指摘するものの、「ではどうであればいいのか」について決して自分の意見は出てきません。必ず何かの剽窃です。引用ばかりです。「xxを読んでもっと勉強したほうがいいのでは?」などと指摘するだけで、例えばそれを実践した結果こうだったんだよ、というような付加価値・付加情報は決して出てきません。自分がいかに物事を知っているかしか拠り所が無いのです。

自分が知ってることというのは、自分自身が悩み考え作ったものではありません。外部の知識に依存しているということは、その知識の元となっている人に依存しています。知識というのは技術的なことだけではありません。人生論や考え方などさえもそうです。批判をしていても批判対象がないと自分の立ち位置を定められません。どこまでいっても他人との相対評価でしか考えられません。他人との差が気になって仕方が無いので、差別意識が生まれます。有名な人・力の強い人には媚びる一方で、そうじゃない人には自分の力を見せつけようとします。だけど、その力も常に借り物です。こんなこと知ってる? です。その知ってるものの中に「誰々って知ってる?」が出てきたら、もうある意味終わりです。

自分自身に目的意識があって、それに沿って生きているならば他人を貶すどころじゃないことに気付きます。謙虚になります。目標に対しての自分の至らなさを実感するからです。あるいは目的を達成出来ているならば満ち足りているので、他人を貶す必要など感じられないのです。

こうやって考えていくと、一見鋭く的確な批評をしてるように見えても、その奥には別の本音が透けてきます。何故批評をするのでしょうか。それを類推していくと、そこには言葉に出てこない別の思惑があることが感じられます。その視点で改めて言葉を検証していくと、一見無関係に見える言葉のそれぞれが一定の方向で発せられていることがわかります。それがその人の価値観であり、考え方です。だから、他人はそれを本能的に感じちゃうのです。本能的に「悪い人じゃないんだろうけど」と僅かながらも距離をおきます。それを感じるほどに「評価されていない」と考えて、どんどん批評家への道を邁進します。ある一線を超えると一気に転落していきます。

目的意識がないとこんなもんです。では無理矢理目的意識を持てばいいのかというと、借り物は所詮借り物に過ぎません。じゃあどうすればいいのか、といえば「自分自身の人生の目的を見つけることを当面の目標にしよう」と考えればいいのです。そして「まだ自分はその目標に至っていない」と謙虚に受け入れればいいのです。至っていないのだから周囲の評価が低くても当たり前だと考えればいいのです。これは卑屈になるというのとは異なります。事実に対して、素直であればそれでいいのです。無理して前向きになる必要もありません。

他人を論評してるときは気持ちいいものです。自分が優れた人間であるかのように錯覚します。ですが、大抵自力で事を成していないのに感じる気持ちよさは危なっかしいのです。自分で為し得たこと以外を自信の拠り所に感じ始めたら、それはダークサイドへの予兆です。自分が目指すものに対して、まっすぐに目を向けることの大切さを忘れないようにしたいものです。

# で、この話はコンペティションって何? という戦略論にもつながるんですが、それはまた別の話ということで。

ま、でも大抵批評家に転がり落ちちゃった人って「他人とは違う。自分にはしっかりした目的意識がある」とか思い込んじゃってるんですけどね。

…で、こういうことを書いている私にも「何故、こんなことを書くのか」ってのがあるんじゃないの? ってのが当然ありますわな。他人が見るところに書くことで批評家に転げ落ちないようにするためです。ここまで書いてて転げ落ちるとカッコ悪いっしょ(w

近々、"あなたの素のままをさらけ出して欲しい"とか"普段のあなたをちょっとだけ見せて欲しい"とかいった要望へ答えなきゃいけない機会がいくつか予定されている。
どういう理由があるにせよ、最後は自分が「やる」と返事したので、他人の思惑はともかくとして...漠然とこの機会を活かさなきゃ転げ落ちちゃう気がしていた。上るのはゆっくりだけど下るのは速いって事にびくびくしてるって言うか...
恥ずかしいかな考えれば考えるほど素からは遠ざかってしまう事に気付き、数日前から「毎日やることやってて滲み出るもんしか素じゃないし、毎日やることやるようにしよ」と決めてました。よけーな事考えてるのが一番自分らしくないなと、いらん事言わないでおいた自分に要望があったんだしと。

引用させて頂いた文章を見て、こんな事を再度自分に言い聞かせる夏の夜でした。